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なぜ七絶を書くか

 多くの漢詩人が七絶(七言絶句)を書きます。しかしこの七言絶句は何百とある詩詞形式の中の一形式に過ぎません。詩の歴史を遡ると、今日残されている世界最古の詩集は『詩経』です。今から凡そ三千年ほど前の詩三百余篇を集めたもので殆ど四言で詠まれています。それは二字+二字のユニットを並べる詠み方でした。それから千年ほど後の戦国時代になると有名な屈原が現れます。彼の長編叙事詩『離騒』はほぼ六言で綴られ、漢の時代も六言が主流でした。これも最初は二字+二字+二字の形でしたが、後に三字+三字という形も出てきます。南北朝に先駆けて晋の時代になると陶淵明が現れます。彼の『飲酒其五』という詩は有名な

  採菊東籬下、 菊を採る 東籬の下、
  悠然見南山。 悠然として 南山を見る。

の句を含んでいます。すなわち五言で綴られました。実はこれより前の三国志時代にすでに五言詩が詠まれていました。二字+三字という奇数の句が生まれたのは詩型の一つの進歩でした。不安定な句末がかえって次の句への橋渡しを有機的にすることが発見されたのです。そして唐の時代に入ると、五言の外に七言が流行するようになりました。七言は五言の頭にもう一つ二字ユニットを載せることで生まれたのです。五言と七言を比べると、五言より七言の方が柔軟な感じを出すことができます。盛唐時代、李白と杜甫が現れますが、杜甫はどちらかというと五言を得意としていました。「国破山河在、城春草木深。・・・」がその例です。一方李白は七言を得意としていました。「舊苑荒台楊柳新、菱歌清唱不勝春。・・・」などです。いずれも詩の運びがよいので詩人に愛用されて行きます。

 こうして千年以上にわたり試行錯誤を重ねた結果詩形は唐の時代に完成されて行きました。そして絶句が愛されてきたのは、何よりも詩情の展開をやりやすいことが挙げられるでありましょう。今その一例として杜牧の『江南春』を見てみましょう。

  江南春 江南の春 杜牧
  千里鶯啼緑映紅,  千里鶯啼きて 緑紅に映じ,
  水村山郭酒籏風。    水村の山郭 酒籏の風。
  南朝四百八十寺,    南朝 四百八十寺,
  多少楼台烟雨中。    多少の楼台 烟雨の中。

 これは日本人にも大変愛された七絶です。芭蕉の高弟内藤嵐雪は「沙魚釣りや水村山郭酒籏の風」という俳句を詠んでいます。本歌取りも極まれりの感があります。しかしうっかりするとこの詩は風景の羅列ではないかと思われます。ところが実はそうではありません。この詩は長安の都で暮らす作者が、曾つて栄華を極めた六朝の都(南京)を思い起こして詠んでいるのです。南京の詩人周本淳は、首句は自然風物、二句は人物繁富、三句は仏寺の盛ん、四句は富家の建築を描いた変化に注目しています。なお同氏によると八十寺の十は平字と読むのだそうです。平水韻では「四百八十寺」は全部仄字で、下三連は禁令に触れるようですが、連続した場合の発音が変わります。現代韻でもSiC baiB ba@ shiA siC で、●●○○●となります。