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話題14 | ■鶴頭挌なる詩をみました 岸本二三男 2007/1/14(日)06:17返事 / 削除

 鶴頭挌なる詩をみました。此のような詩を作って、世に問うと言ったことは大変残念です。以前に先師呂山翁いわれたことがあります。
 此のほど、中国人の真筆詩画というものの広告が来た。
  織旗翻然征馬進
  田野草靡平天下
  信節昭昭萬人仰
  長策武功留青史
 こんなものが日本でも弄ばれて作って歩く問いうものがいた。今度は中国人が馬を描いて、上に織田信長を詠んだものが売り出されたのである。こんなものを頭字韻の詩と呼ぶ由、作者は台湾に生まれ、書を胡漢民・黄賓紅に学んだとある。いずれも大学者で且つ大詩人出ある。それがこんなものを作って歩くとは笑止千万である
 私は別に呂山翁の言うことを、金科玉条としている訳ではありませんが、此の件に関しては納得します。漢詩を遊戯に貶めてはいけません。


諸友勿瞋吾煎熬 諸友瞋る勿れ 吾れ煎熬し
徒評吐鳳口叨叨 徒らに吐鳳を評して 口叨叨なるを
作詩志陋情成陋 詩を作りても 志し陋では 情も陋と成り
摘句心高趣亦高 句を摘て 心高ければ 趣も亦た高し
故化遊戯措辞弄 故に遊戯と化して辞を措くを弄び
縱遭軽侮衒才労 縱え軽侮に遭っても 才を衒うに労す
偏憐朽木彫無術 偏に憐れむ 朽木の彫るに術べ無しを
空苦譏嘲何得逃 空しく譏嘲に苦しむも何んぞ逃れるを得んや 

 諸友よいからないでおくれ、私がいらいらしては、立派な君が詩にケチをつけることに、
しかし幾ら詩を作っても志が賎しくては、情(詩情)も賎しいくなります
句を探りては、詩人の心が高ければ、詩の趣も自然と高くなります
 わざわざ詩をパズル化して、たとえ馬偏の字ばかりを寄せ集めては、詩句を弄んだりしては
人の笑い者になっても、まだ自分の才をひけらかそうとしますのはなぜでしょうか、
このような人は、孔子様の言われるように、腐った木とおなじで、いまさらに彫刻をして見栄えよくしてもそれは出来ないことです。
 とどのつまり、人から嘲られても、逃れることはできません。
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投稿2 | ■余談藏頭格 中山逍雀 2007/1/14(日)06:25返事 / 削除

 石倉鮟鱇先生のご意見を拝読し、小生の実体験を披露させて頂きます。読者諸賢のご参考になれば幸いと存じます。
 小生は、常々謂っていることですが、例え其れが自分自身であったとしても、作詩には必ず相手が居なければならないと。自分に話しかけることと、独白とは異なります。
 日本の多くの漢詩人と自称する人の作品を拝見しますと、その殆どは独白体です。中華詩詞壇の方々の作品は、その殆どは常に相手が居るのです。この事は、日中の、漢詩人の叙事法で、基本的な然も大きな違いです。
 中華詩詞壇の方々は、応酬を盛んに行います。ですから次韵・用韵・・・・等の言葉があるのです。藏頭格もこれら応酬詩法の一つなのです。藏頭格は次韵や用韵よりも、もっと相手に接近した、一対一の関係で成り立つ詩法なのです。
 例えば、気に入った作品を誌上で見つけたとしましょう。でも相手とは面識はありません。そんな時は、相手の作品に対して、先ず同感の部分を述べ、次に自分の意見を述べ、次に共通の意見を述べて、次韵の詩法で作詩し相手に送るのです。応酬の数を重ね、相手の様子が分かったところで、敬愛の情を籠めて、藏頭格を送ります。
 このように、藏頭格は決して安易な詩法ではないのです。
 藏頭格の、もう一つの用法として、比喩・風刺が有ります。此は極端に難しい詩法です。指向が一点に集中しますから、相手に対して十二分な情報を得ていないと、作品が笑われるのではなくて、作者本人の人格が笑い者になります。此は並大抵の能力では対応できません。
 日本の漢詩人と称する方々の創作は、独白体が主流ですから、応酬という詩法が育ちません。応酬という詩法が育っていない現状では、藏頭格の意義が理解できないのは当然のことでしょう。
 余談として、日本人の作った次韵作品を眼にしますが、形式は次韵ですが、内容は独白体です。此は詩形の用法が間違っているのです。次韵は必ず、対話で無ければならないのです。例え相手が過去の人であっても、当然のことです。

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投稿1 | ■鶴頭格について 石倉鮟鱇 2007/1/14(日)06:22返事 / 削除

 このページに「鶴頭格」は漢詩を言葉の遊戯に貶めるものである旨の投書がありますが、実際の作詩に照らして考えれば、「言葉の遊戯」として「鶴頭格」の詩を書くことはとても難しいものです。そこで、「鶴頭格を言葉の遊戯」とする考えそのものが浅薄で、人間のことあるいは人情の機微、さらにいえば詩における「志」の何たるか、まるでわかっていない言であると思えます。詩における「志」とは、良くも悪くも人間の人間らしい心の動きの全体であり、俗にいう「志」、たとえば大志や鵬志などの美徳系の立派な「志」だけをいうものではありません。
 なぜ「言葉の遊戯」として「鶴頭格」を書くことがむずかしいかを書きます。
 鶴頭格の多くは絶句4句の句頭に特定の人物の姓名を拝借ししますが、その姓名の多くは実在の人物です。もの言わぬ風景を描くのであれば作者は何を書いてもいいのですが、実在の人物をめぐって書くとなると、そうはいきません。名前を拝借した人にどう思われるかということに普通の詩以上の心配りをしなければなりません。むずかしいのは、ある人の姓名を詩に織り込むという言葉を扱ううえでことではありません。その人に対して何をいうか、作者のどういう心を詩に託すかということがむずかしいのです。
  ここで、名前を拝借した人に対してどういう心で対するかをめぐって、ふたつ例示します。ひとつは、その人物に対する揶揄あるいは風刺。時の権力者や歴史上の人物に対する異論をぶつけるための揶揄や風刺です。力には言葉で対し、言葉には毒を盛る、そういうやり方です。
 しかし、この揶揄や風刺は、作者にとってはとても危険です。歴史上の人物を揶揄・風刺するのであれば、世上の評価に堪えられるだけの見識が作者に求められでしょう。また、時の権力者に対する揶揄・風刺であれば、言葉に盛られた毒が世上の共感を得るものでなければ、かえってもの笑いの種になるだけです。揶揄や風刺のための「鶴頭格」を書くには、相当の覚悟がいります。それを、「言葉の遊戯」と片付けるのは、いかがなものか。対象となる人物の姓名を詩に盛り込むのは、言葉の毒を強めるためであって、言葉の遊戯のためではありません。
 ふたつ目に、敬愛あるいは友情のために書く「鶴頭格」に触れます。多くの「鶴頭格」はこの立場から書かれます。作者は、その詩を贈るべき人に対する敬愛、友情、あるいは謝辞を述べるためにその人の姓名を借りて詩を書くのです。揶揄や風刺の詩が言葉に毒を盛ることを求めるとすれば、敬愛・友情の詩に欠かせないのは真心です。相手の名前を借りるという言葉の制約のなかで、真心を伝える精一杯の努力をする、その努力の様子がまた、相手の名前を鄭重に拝借するという行為のなかで相手に伝わる、「鶴頭格」は、そういう交情をめざす詩でもあります。これを、「言葉の遊戯」と片付けることは、あなたがたふたりの詩のやりとりはわたしには関係がないといういっているのに等しいことと思えます。
 なぜなら、敬愛・友情のために書かれた「鶴頭格」の詩を読む第三者には、作者と詩中の姓名の人物の関係がわからず、どうしてそのような詩が書かれたのかという背景がよくわからない、そこで、これは「言葉の遊戯」だという思いだけが第三者の頭に残るのではないでしょうか。そこで、「言葉の遊戯」だと切って捨てる。
 しかし、これまた滑稽なことです。なぜなら、敬愛・友情のために書かれた「鶴頭格」の詩は、本来その詩に関わるふたりの間のこととして書かれたものなのであって、それを第三者が、「わたしには関係がない。空疎な言葉の遊戯だ」ということは、お呼びでないのに余計なお節介の口出しをしているに等しいからです。「鶴頭格」の詩のやりとりをしている二人の間に入って、君たちは「漢詩を言葉の遊戯に貶めている」といえばどうなるのか。この問いへの答えは、冒頭、小生が「人間のことあるいは人情の機微」といったことととても深い関係にありますので、読者諸兄の判断に委ねます。
 ただ、ある人の姓名を借りて詩を書くというこは、個別具体的な生身の人間に触れることですから、自分自身をその人にさらけ出すことになります。さらけ出したものが、相手に信用されなければ、不興を買う危険があります。そういう危険な詩作りを、単なる「言葉の遊戯」として書ける人がいるとすれば、その人はとても人情の機微に鈍感か世渡りに不器用で、まわりから理解されないだろうなということを明言して、「鶴頭格」の詩作りの弁護とします。

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