メニューに戻る 話題79 最後へヘルプ
話題79 | ■赤蜻蛉 老叟の郷愁 中山逍雀 2007/11/23(金)20:18返事 / 削除

赤蜻蛉と老叟の郷愁

赤蜻蛉。馬頭観音,路傍英。

 この曄歌は平凡な句に見えるが、私に執っては少年期から現在に繋がる糸口となった。

 この「赤蜻蛉」の語彙を見たとき、私は今まで、思い出すこともなかった六十年前、小学生のとき、兄と母が私に話してくれた様子が、ありありと脳裏に蘇った。

 私の生家は、東京に隣接する当時でも田舎ではなかったが、千葉県市川市の農家で、田畑は里山の市川市宮久保町美女ヶ崎に有った。小学生の頃、下校すると直ぐに父母や兄が居る美女ヶ崎の畑に行った。

 里山は動植物の宝庫で、昆虫は数え切れないほどの種類がいた。殊に薄羽蜻蛉の黒く透明な羽は、少年の目にも、怪しく美しく見えた。

 幅50センチほどの潺なのに、泥鰌も鰻も鯰もタナゴも居た。
 脱皮したばかりの赤蜻蛉を見た記憶は朧気だが、兄と母の言葉は鮮明に覚えている。

 赤蜻蛉は、渡をする蜻蛉だから、此処で生まれて、秋には筑波山麓まで飛んで行くんだぞ!と兄は言った。其れに付け加えて母が、もう少し経ったらお前も蜻蛉と同じ様に家を出て、一人で何処までも生きて行くんだ!と言った。

 現在のことだが、私には土浦市郊外に山林がある。例年のことだが初秋に山の草刈りをする。肌に触れる風は幾分涼しく成った来る。沢山の赤蜻蛉が突き出た石の上に暖を求めて止まる。

 蜻蛉は冷血動物だから外気が冷たくなると、体も冷たくなって、遂には動けなくなって死ぬのである。突き出た石は陽の光を受けて暖まっている。蜻蛉は暫しの暖を求めて、束の間でも命脈を保とうとするのである。近くに馬頭観音の石碑が有れば、必ずや赤蜻蛉は石碑の上に止まるであろう。

 蜻蛉の生き様を見ていると、長年生活のために働いた我が身に置き換えて、人の生き様と殆ど同じではないか!と、心を締め付けられる。

 郊外に行けば今でも馬頭観世音を目にすることは出来る。昭和30年頃まで農家に自動車はなかった。もちろん耕耘機もない。
 運搬は専ら人が牽くか牛馬に頼った。牛馬は労働力と同時に家族の一員でもあった。隣部落には馬を沢山飼っていて、運送業をしている家があった。小学登校の時、沢山の馬と馬方が居た記憶がある。

 でも人間が天下を牛耳る世の中では、牛馬は経済動物である。老齢になれば肉用に屠殺される。病死した場合は家畜専用の墓地に葬られる。
 牛馬にしてみれば、一生働かされ、働けなくなったら殺されるのでは浮かばれまい。屠殺場に隣接する家畜慰霊碑は立派な石造りだが、其処に慰霊者の情愛は微塵も感じられない。

 其れに引き替え病死の場合は、墓に土葬され、お盆やお彼岸には卒塔婆も、飼い主家族が読経もしてくれ、偶には線香も花も供えて呉れるのである。

 路傍英は馬頭観音近くの道端に咲く花だろう。道端の草は何時も踏まれ過酷な運命の下に生きている。
 過酷な者は過酷な者の気持ちが解る。病死した牛馬と路傍の草は、共に過酷な運命と言う共通点がある。その草が病死した牛馬のために清楚な花を咲かせ手向けたのである。

 赤蜻蛉は寒さのためにその生涯を閉じ、家畜は人間に食い殺され、酷使されて死ぬのである。過酷な条件に生きる雑草は、牛馬の霊に清楚な花を咲かせるのである。
 さて其の人間はどうだろう?赤蜻蛉。馬頭観音,路傍英。の一首はそれらを語りかける句であった。

 今でもこの光景は目に出来る。農耕牛馬の存在が、昭和35年頃迄とすれば、牛馬を葬った人も、既にこの世には居ないだろう。

 寺に頼めば卒塔婆も無料ではない!線香も花もそうである。何処にも心優しい人は居るもので、身内か他人かは識らないが、この物質優先の世の中に、人のために死んでいった牛馬の霊を慰める心優しい人がいるのである。

 赤トンボと馬頭観音と路傍の花 この3っの言葉と、常識的な解釈だけで、これほど大きな物事を表現できるとは!それは、この作品が緻密な計算の下に組み立てられているからに他ならない。佳作の一つとして恥じない作品であろう!

余談
 町の郊外には家畜の土葬墓地はあちこちにあった。今でも生まれ故郷近くに住んでいる私は、子供心にも墓地の所在は識っていた。だがいま行ってみると、墓地は跡形もなく、墓地の上には住宅が密集している。
 墓地にあった筈の多数の石碑は、近くの寺の片隅にひっそりと並べられていた。

http://www.741.jp/

( 曄歌の作者は高橋香雪女史 / )